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小山の伝説&昔の写真

小山の伝説・小山百景は、小山市教育委員会文化振興課・小山の昔の写真は、小山市観光協会に帰属します。無断転載、再配信等は行わないで下さい。

人から人へ、親から子へと長い間語り伝えられてきた伝説、それは生の郷土の歴史であり、かけがえのない文化遺産といっても過信ではありません。
伝説には多少の脚色があっても、郷土に根ざした先人たちのすばらしい英知や心情には現代に生きる私たちの心をとらえてやまない、不思議な力が秘められているように思われます。

小山百景

生井地区

 

白鳥八幡宮古式祭礼

悪霊を祓う、頭屋制の名残りを伝える貴重な祭り
毎年、旧暦1月11日に行われる白鳥八幡宮の古式床しい祭りで、地区内の6つの組が1年交代でその執行にあたる。また、県内でも数少ない頭屋制の名残りがうかがえ、貴重な伝統を承継している。祭りは近くを流れる巴波川の通称「アカップチ」での深夜の若水汲みからはじまる。その水で赤飯を炊き神への供物とするのだ。その後、日の出を合図に供物を持った行列は、祭りの当番組の宿(頭屋)から八幡宮へ向けて出発する。そんなことから、地元では「日の出祭り」と呼んでいる。
3つのお膳のうち、一の膳・二の膳には赤飯と豆腐・鮒2匹。三の膳には甘酒と清酒が各一升と決められている。
一行は神社に着き神事の後、鳥居に吊るされた鬼の面を的に、ウツギの木でつくった弓矢で射る。これは鬼、即ち悪霊を年の初めにあらかじめ神前で追い払うことによって、悪霊が村へ入るのを防ごうとする行事だ。昭和40年(1965)8月30日、市の無形民俗文化財に指定。
 

寒川尼の墓とツゲの老木

ツゲの木に見守られて眠る源頼朝の乳母
小山朝光の母寒川尼(小山政光の妻)は、かつて源頼朝の乳母を務めた。文治3年(1187)、小山氏が頼朝に味方して野木宮合戦で勝利したとき、寒川尼はその功績により寒川郡や網戸郷の地頭職に任ぜられる。
古代、和名抄の寒川郡は真木郷・努宜郷・池辺郷からなっていた。いまの間々田・野木・赤麻にあたる。寒川尼の本名は不明。宇都宮氏や小田氏の祖、八田宗綱の娘で京都で生まれたと思われる。やがて小山政光と結婚、頼朝の乳母の一人となったのだろう。
政光の死後、尼となって寒川尼(網戸尼とも)と称した。『吾妻鏡』によると安貞2年(1228)に91歳で死去とある。
墓は網戸十郎朝村の開基と伝えられる称念寺境内にひっそりと建つ。朝村は朝光の子で網戸に住み網戸十郎と名乗った。寒川尼の孫になるわけだ。そばにはその朝村の墓もある。
ツゲの老木は、あたかも墓守のように二人を見守っている。

 

サイカチの木

大平山・栃木街道への道しるべ
下生井小学校の西裏、県道南小林〜松原線沿い、与良川橋手前の堤防上に、ひときわ目立つ木が立っている。街道の目印として親しまれているサイカチの木だ。現在のものは二代目。初代は昭和22年(1947)の台風で倒れてしまい、困った村人は何かと赤麻遊水池に1本だけあるのを見つけ、大八車で運んで移植した。
江戸時代から道標として利用されてきた。野木宿から日光街道を経て思川沿いで大平街道にわかれる。バス停留所としても利用されていた時期があった。厄除け・魔除けの木として信仰される。
旅人はサカイチの木に、ずいぶん助けられてきた。







 

渡良瀬遊水池

水と緑の雄大な景観を誇る自然のパラダイス
渡良瀬遊水地は東京ド−ムの約700倍にあたる33kuの面積を持つ。害虫駆除のためのヨシ焼きは圧巻で、ゴ−ゴ−というものすごい音をたて、炎は10mぐらいまで立ちのぼる。春の風物誌だ。
また、ここは熱気球のメッカでもある。冬の冷たい空気のなか、色とりどりの気球がバ−ナ−の熱い炎で天高く押し上げられていく。夕日に映える気球は、大きなシャボン玉のようだ。
足尾鉱毒事件による谷中村廃村の歴史を刻み込んできたが、いまはアクリメ−ションランドとして整備され、きれいに生まれ変わった遊水池。秋になると寺院跡には決まって赤い彼岸花が咲く。




 

ヨシズ編み

大正時代農閑期の副業として発展いまは市内に一軒のみ
夏、たいていの家で西日があたるところにかけられるヨシズ。風情がある日除けの道具だ。栃木県におけるヨシズ編みは江戸時代の後期、古河藩主土井利享が旧谷中村の恵下野でつくらせたのが始まりといわれる。盛んになったのは大正時代からで、原材料の豊富な渡良瀬遊水池を中心に、農家の副業としてはってんした。
ヨシズの大きさは、高さや幅を変えて数種類にもおよぶ。いまは機械化で手編みの昔と比べるとずいぶんと楽になったが、悩みもある。中国産など外国からの輸入が増えたからだ。   市内でただ1軒、生産者を続ける池貝家。ヨシズ編みは戦後の昭和20年代から本格的に始めたという。でも「汗水流す割には・・・、何度やめようと思ったことか」と奥さんは嘆く。しかし「オレが元気なうちは続ける」という主人の力強い言葉を聞いて、少し安心した。
 

旧思川

水路変更で残された水辺は絶好の釣り場
可川改修が本格化するのは、明治半ばに河川法・砂防法・森林法の治山治水基本3法が施行されたことによる。
最初は江戸時代からの舟運航路を確保する「底水工事」が主だった。しかし、その後は洪水対策の「高水工事へと移る。
明治43年(1910)の洪水をきっかけに、翌年から利根川一帯の改修工事に着手。野木町の友沼から思川の水路を変更し、下生井地区まで新川筋を造成することになった。足掛け12年にわたる大事業。
真っ直ぐな水路になると水害も減った。蛇行していた思川の一部が約1qほど残り、フナなどの格好の釣り場となっている。






 

水塚

洪水に悩まされた人々の自営手段
思川・巴波川・渡良瀬川が合流する地域は栃木県でも最も土地が低く、しばしば洪水に悩まされてきた。白鳥地区にみられる輪中堤防や下生井地区の自然堤防上に集落を築いたこと、あるいは人工的に塚を築き、その上に家を建てたことは、洪水の危険から身を守ろうとする人間の自衛手段だった。
田園地帯にひときわたかくつくられた水塚は、遠くからでもよくわかる。地元の人は「ミツカ」と呼び、いまもその補修に余念がない。
 

道標(大平山への道)

近道を示す道しるべ
市内には道しるべの類が多い。多くは村の境や二又路などに立てられている。この標識は、ナマズ料理が売り物の「しんますや」の角にある。嘉永5年(1852)の年号とともに「是れより左太平山道」と、太く深く刻まれている。大平道は野木宿よりわかれ、思川を渡り、下生井から南小林を経て、栃木市で例幣使街道へ合する日光近裏道で、表街道が混雑しているとき、東照宮杜参の人々が使った。


 
※おやま百景ガイドブック:平成6年10月24日初版発行・平成16年5月15日改訂版発行 編集 小山市教育委員会 文化振興課

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